誰よりも遠くへ

川の流れに逆らって

【小説】危機の時代が去って

 危機の時代が去って、言葉には上手いも下手もない、ということにようやく気がついた。野外フェスのど真ん中で、ロックスターがわけのわからない言葉を叫んでいた。曲が始まって、本物の感情みたいなものを目指して、観衆がもみくちゃになっているのを、僕は高い塔の上から眺めていた。新しい日々が始まったみたいに、雑なイントロを聴いていた。僕の足元で、女が地べたに座り込んでいた。女は缶ビールを片手に下界を見つめていた。唇は黒く、大きな鼻をしていた。顔は覚えていない。青のカーディガン、青と花柄のブラウスを着て、デニムパンツと青い革のブーツを履いていた。どうやら僕の知り合いのようだ。

「ビール、美味しい?」

声をかけると、女はぐっとビールを飲み干して、

「うん。でもブルーベリーでいいや」

と呟いた。足元に散らばっていた金属の皿の上に空き缶を置いて、女は塔の階段を下りていった。僕は追いかけることになった。

「僕は黄色い菖蒲の花が好きだよ」

女の背中を追いかけながら、僕は呟く。花柄のブラウスのことを考えていたのかもしれない。

「だろうね」

女は冷たく応えた。塔の下には街が広がっていた。夜風が二人の間を突き抜けていくのを、僕は不安に感じた。夜明けは近いのかもしれない。僕たちの世界に、時計はなかった。

 女は路地裏の方へ歩いていった。この街に猫はいない、僕はなんとなく確信していた。猫どころか人間も見当たらない路地裏で、いつしか僕は女のことも見失っていた。構わず道の向こうへ進んでいった。小さなアトリエに辿り着いた。壁紙が夜の青と同じ色をしていたので、僕はそこが屋内であることに気がつかなかったのだ。一枚の油絵が隅に飾ってあった。夜の青を背景に、赤、黄色、緑の小さな花がいくつも描かれていた。女のブラウスの花柄が、そのまま描いてあったのだ。この夜も、路地裏のアトリエも、一枚の油絵も、そして女のブラウスも、ひとつの大きな海のように、街に沈んでいるような気がした。僕はそのとき、女を見失ったのではなく、僕自身があの女になったことに気がついた。あの女は僕であり、僕はあの女であった。僕は安堵した。

「待て」

 男の声が聞こえた。色白の、影の薄い男が立っていた。僕の身体はふたたび輪郭を取り戻した。恐ろしい気持ちになった。僕は迷わず男を突き飛ばし、アトリエを抜け出した。自分の足音がしないことに、すぐに気がついた。夜明けは近いのだ。すぐに男が追いついたので、僕は逃げるのをやめた。

「お前、大丈夫か」

男の細い目には、哀れみが深く込められていた。

「大丈夫だよ、兄さん。僕はちゃんと判断している。判断しているから、この国も民主主義なんだ。そうだろう?」

僕はわけのわからぬことを言って笑った。男は、僕の兄だったのか。

「何を言っている。何を言っているんだ?お前」

 病室だった。この夜の街は、真っ白なベッドシーツに包まれた、宇宙と同じ匂いの、病室だったのだ。僕は笑ってみた。兄は、絶対に笑わない。言葉には、上手いも下手もないのだ。