誰よりも遠くへ

川の流れに逆らって

「何が好きかで自分を語れよ!」⇒うるせえ!

続けるか分からないブログを書いている。僕の文章を必ず読んでくれる人はいる(ありがとう!!)ので、読み手がいる前提で、敢えて今日は図々しくも自分語りをしていきたいと思う。

 

唐突だけど、僕は本に挟まっているハガキがきらいだ。ハガキが挟まっているページばかりを見てしまいそうになる。最近ふと思う。一番手に届きやすい場所にある言葉、情報を、咀嚼せずに飲み込んでしまう自分が心配になる。メディア政治を専攻している自分自身のリテラシーの低さを、最近おそろしく思っている。こんなんでゼミ論書けるんかな。

お金がほしい。バイト先は営業しているけど、密度の高い集団塾のバイトなんてリスクが高すぎるので休んでいる。手元には17万円。正直もうバイトなんてやりたくない。これ以上時間を費やしたくない。労働はきらいだ。

あしながおじさん』がきらいだ。主人公の女の子は、孤児として育ったが、文学の才能を認められ、手紙を書くことを条件に「あしながおじさん」に大学進学を援助してもらう。主人公は手紙を通じて自身の大学生活を赤裸々に描いていく。主人公は英語、そして文学の才能を糧に奨学金や、小説の原稿料を勝ち取る。ついには作家としてデビューする。

物語はハッピーエンドに終わる。「選ばれなかった孤児たち」のことも、「作家になれなかった人たち」の事も触れずに終わる、と言い切ってしまうのはニヒリズムに過ぎるにしても、とにかくきらいだ。

夢見る少年少女たちが、大人たちによって選ばれ、拾い上げてもらう。才能さえあれば報われる。それだけの話が、名作として語り継がれている。正しいと思う。「自己責任論」だって理論上は美しく正しいと思う。僕は作品全体に漂うこの「正しさ」をどうしても受け入れることができない。きらいだ。

 

ブログ初日なのに、きらいなものの話ばかりをしている。僕はそんな自分がきらいだけど、そんな自分だってちゃんと自分なんだと思う。

「何が嫌いより、何が好きかで自分を語れよ!」は結局ルフィの言葉ではなかったらしい。それでもこの言葉が名言として、しばしば人々に受け入れられている。でも僕は、自分が何を嫌い、なぜ嫌うのかをしっかり語ることを放棄したいとは思わない。何かを嫌いになる自分だってちゃんと自分だし、それでいいと思う。ひとを嫌いになったり、物事を否定することは、どうして綺麗な感情ではないとみなされてしまうのだろう。

人を好きになる自分、物事を肯定し、前向きに取り組む自分自身は好きだ。それでも、自分の中の「きらい」な感情は、僕自身の影として、自分の内面にしっかり存在している。

僕の大好きなヘルマン・ヘッセの『デミアン』の主人公たち(おすすめの小説です)のように、僕たちは禁じられたもうひとつの世界に目を向けるべきだと思う。忌むべき自分の「きらい」な感情を言葉にすることを、僕は実践していきたいと思う。

 

もちろん、自分の「好き」な物事についてもたくさん考えていきたい。詩人の最果タヒの、『「好き」の因数分解』のようにゆるやかに言葉にできたらいいな、と思う。おすすめのエッセイです。

 

「好き」の因数分解

「好き」の因数分解

  • 作者:最果 タヒ
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

最後に好きな曲を載せておきます。「predawn」を「ぷりだうん」と読むとバカにされます。

 


ハルカミライ - predawn (Official Video)